病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった(1)

病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった
新大陸侵攻の先兵、スペイン軍の上陸とともに天然痘が持ち込まれた

15世紀から17世紀前半にかけて、ポルトガル、スペインを中心とするヨーロッパ諸国が地球規模の遠洋航海を実施。新航路・新大陸を発見し、積極的な海外進出を行った。
のちに世界史上、大航海時代と呼ばれるようになった時代である。
それは、欧州諸国による近代植民地体制の確立だった。ヨーロッパ人がアメリカ新大陸を発見し、侵略して先住民を殺戮、財宝を略奪して植民地化した。それは世界を激震させた大事件であり、世界の地図を塗り替えた。

ローマ法王に新大陸征服の優先権を許可されたスペイン人は、メキシコ、ペルーなどの中南米諸国を侵略し、先住民インディオは混血化され、中には絶滅した部族もある。
新大陸の二大帝国であったアステカ帝国とインカ帝国の滅亡の大きな原因の一つは天然痘であった。
天然痘との最初の遭遇は1518年だった。天然痘がスペイン帝国のコルテス将軍侵攻にともなってスパニョーラ島に持ち込まれ、インディオに襲いかかった。この島から天然痘はメキシコに広がっていくことになる。
1519年にスペイン人のエルナン・コルテスの軍がテノチティトランの町にはいると、時の国王モクテスマ2世は最初コルテスをもてなし、父のアシャヤカトルの宮殿に住まわせた。
テノチティトランはモクテスマ2世とコルテスの二重統治状態になったが、スペイン人に敵対的なテノチティトランの統治階級はこの協力的な態度に反対し、翌1520年にモクテスマ2世を退位させて王の弟に当たるクィトラワクを王に選んだ。

インディオだけに襲いかかった天然痘。人口が10分の以下に激減

その後も対立は続き、モクテスマ2世は殺されたが、アステカ人に殺されたのかスペイン人に殺されたのかは文献によって異なる
コルテスらはいったんテノチティトランから逃げたが、数か月後にスペインとトラスカラの連合軍を集めてテノチティトランを占領した。クィトラワクはその前後にスペイン人から持ち込まれた天然痘に斃れた。

コルテスが退却してからほぼ4か月後、首都テノチティトランでこの病気が突発し、猛威を振るいはじめた。この事実は、スペイン人を襲撃した者たちへの神罰と見なさないわけにはいかなかった。
インディオはそう考えたわけで、コルテスがメキシコ中央部に帰ってきたとき、チチカカ湖の周辺に住んでいたアステカ諸部族はみな彼の味方になることを決意したという。

1520にコルテスは再上陸し、アステカを占領したが、天然痘は猛威を振るい続け、圧政や強制労働、麻疹や発疹チフスなど他の感染症も相まっても征服前の人口が2500万人だったのが、16世紀末には100万人にまで減少した。10分の1以下にまで激減したのだった。

天然痘は痘瘡ウイルスを病原体とする悪性の感染症で、疱瘡、痘瘡ともいう。人に対して強い感染力を持ち、高熱と全身に小水疱が出て、死亡することが多い。致死率が非常に高く、平均で20~50%。仮に治癒しても、瘢痕(あばた)が残る。人類に有害な感染症のうち、現在までに、人類史上初めてにして、唯一根絶に成功している疫病である。

インディオに対して猛威を振るった天然痘であるが、侵略したスペイン人はまったくといっていいほど影響を受けなかった。その理由は、彼らのほとんどは子供の頃に感染し、効果的な免疫(抗体)を身につけていたからだった。

スペインの侵略は、ローマ教皇の命を受けてのことだったが、それはイエズス会の命だったともいわれる。
メキシコに移住した大学の先輩を訪ねてメキシコへ行った折り、コルテス将軍メキシコ侵攻のときのことを聞いた。
それによると、コルテスの軍の連中は「あいつらは人間じゃない。猿だから殺していい」といわれ、殺戮をくり返したが、途中、ローマ教皇からコルテス将軍に、「殺戮をやめろ、彼らは猿ではない。人間だ」という連絡が入り、コルテスの軍は殺戮をやめたという。
本当に猿と思っていたのだろうか、まさか、信じられないことではある。
このことはずっと気になっていて、インターネットで調べたら、次のような侵略の理由に、インディオは半人間との見方に立っていた。

(続く)

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。