病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった(3)

病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった
コロンブスの新大陸発見とともに天然痘も流入

スペイン人の新大陸侵略によってインカ帝国もアステカ帝国も滅亡したが、スペイン人とともに天然痘が侵入し、このウイルスに免疫のないインディオの民を次々と斃したのだった。
北米大陸ではそれより先、コロンブスの新大陸発見、上陸とともに天然痘も流入。免疫のなかった先住民族・インディアンはいとも簡単に罹患し、激甚な被害がもたらされた。
北米ではまた、白人によって意図的に痘瘡ウイルスが広められたといわれている。『忍び寄るバイオテロ』(山内一也・三瀬勝利NHKブックス)に次のように書かれている。

1754年から63年にかけて北米の英・仏植民地間でフレンチ・インディアン戦争が起きた。イギリス軍は、フランス軍とその同盟のインディアンを破り、カナダの支配権を獲得した。英軍が帰還したのち、インディアンのポンチャック族が反乱を起こし、ペンシルバニアのイギリス軍砦を壊滅させ、ピット(現在のピッツバーグ)の重要な基地が危機に瀕した。

1763年7月、北米最高司令官のジェフリー・アマースト卿は、手紙の追伸にインディアンに天然痘を送る工夫をしてはどうかと書いた。この示唆が実行されたかどうかは明らかでないが、ピット砦の司令官からは「毛布に接種してインディアンに与え、自分は病気にかからないよう注意を払う」との返事が送られていた。
アマースト卿は、「忌まわしい人種を絶滅させる」と述べたという。

先住民に天然痘付きの毛布やシーツを贈呈し、ウイルスをばらまいた

他の資料らよると、アマースト卿は、「忌まわしい人種を絶滅させる」と述べたという。
敵(インディアン)に塩を贈るようなふりをして、天然痘付きの毛布を贈呈したのであった。なんと狡猾なことか。天然痘患者が収容されている病院からシーツやタオルを持ち出し、贈ったとも言われる。
しばらくして天然痘は大流行し、企ては成功した。しかも、この天然痘はその後、200年にわたってアメリカ・インディアンを苦しめることになる。

この説については、インディアンの部族の公式ウエブサイトではこの歴史を事実として伝えているようだが、英国側にその証拠となる記録はないとのこと。『長寿のための医療非常識』(岡田正彦 光文社)に、次のような記述がある。

ただし、天然痘は贈呈されたシーツやタオルから感染したのではなく、自然に広がったとの説もあって、真相は不明である。これもバイオ・テロの特徴で、犯罪によって起こったものか、自然に発生したものか、区別のつかないことがある。またそれだけに完全犯罪の手段としては優れている、ということになってしまう。

アメリカ独立戦争でも武器として天然痘が用いられた

アメリカ独立戦争でも、英国軍は天然痘を武器として用いることが試みられといわれており、『忍び寄るバイオテロ』に次のように述べられている。

イギリス軍司令官ウィリアム・ハウは、天然痘にかかったことのない兵士全員に人痘接種を命令した。ジェンナーの種痘が生まれる前、後述のように、天然痘患者のかさぶたを接種して軽い天然痘にかからせる人痘接種がヨーロッパでは広く行われていたのである。
一方で、難民の市民にも天然痘を接種して、彼らによりアメリカ軍に天然痘を持ち込むことを試みた。この時代、ヨーロッパでは、ヒトの痘瘡の膿を使った種痘が行われていた。

間もなく、ボストンでイギリス軍から逃れてきた市民の間に天然痘が発生した。その結果、ボストンの独立は遅れたと伝えられている。
1777年、アメリカ軍総司令官ジョージ・ワシントンは全軍に対して、新しい軍事行動をする前に人痘接種を行うように命じた。彼自身は19歳のときに天然痘にかかっていたので、その必要はなかった。

まさに天然痘を間にしての攻防といった感がある。

ヨーロッパでは以前から、乳搾りをする人天然痘にかからないことがわかっていた。牛の病気に、天然痘に似た牛痘がある。牛痘ウイルスは人にも感染するが、軽症ですむ。
その事実に注目したエドワード・ジェンナーは1796年、8歳の少年に牛痘の膿を接種した後に天然痘の膿を接種し、天然痘が発症しないことを突き止めた。人間の痘瘡への免疫も獲得する。
これがジェンナーの「牛痘接種法(種痘法)」で、人類初のワクチンが開発されたわけであり、これがきっかけで人類の天然痘撲滅へ向けて確実に歩みを進めることになった。
ちなみに、接種という言葉の意味を確認すると、本来は微生物の分野で種を植え付けることで、感染症予防の接種については「ウイルス・細菌・ワクチンなどを人体や動物の体に移植すること」と説明されている

天然痘絶滅はジェンナーの種痘発明から200年後だった

ここでは天然痘(ウイルス)という言葉を使っているが、医学用語として用いられてきたのは痘瘡(ウイルス)である。天然痘の他、疱瘡ともいう。
天然痘の出現については以前、紀元前1157年に死亡したファラオ・ラムセス2世の見られる膿疱がもっとも古い証拠とみられてきた。しかし、(社)予防衛生協会の記事(2017.11.21)に、「天然痘ウイルスは16世紀終わりに出現した。新たに見つかったミイラのゲノム解析で、歴史はわずか400年になった」と書かれている。
ファラオのミイラに見られた瘢痕は、天然痘ではなく、水痘によるものと疑われているという。

日本の天然痘については、『日本書紀』に見られる「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者………という記述が天然痘の初めての記録と考えられているが、麻疹などの説もある。奈良の大仏造営のきっかけの1つが天然痘の流行だったと考えられている。それらが天然痘ではなかったのなら、何の病気だったのだろうか。

ジェンナーの種痘が発明され、天然痘撲滅の道は拓かれたが、世界は広い。撲滅までには200年を要した。天然痘が地球上から根絶されたことがWHOによって確認されたのは1980年のことだった。

しかし、天然痘ウイルスは今も存在している。山内一也・東京大学名誉教授が(社)予防衛生協会に寄稿した記事によると、天然痘根絶が近づいた1970年代、実験室から天然痘ウイルスの漏出が相次いで起きた。
1984年にWHOは加盟国に天然痘ウイルスの保有を禁止し、不活化するか、米国疾病制圧予防センター(CDC)とモスクワのウイルス製剤研究所に移管するように要請した。モスクワのウイルスは1994年にロシアの国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究所(通称:Vector)に移された。CDCには、国立予防衛生研究所(現:感染症研究所)のウイルスを含む450サンプル、Vectorには世界各国からの150のサンプルが保管された。

今も天然痘ウイルスは存在している、人工合成も可能に

こうして現在も、天然痘ウイルスはこの2つの施設に保管されている。これらのウイルスは、ゲノム(全遺伝子情報)の解読が終わり次第、すべて破棄されることになっていた。1991年には、1975年に見つかった最後の患者の解析が終わったが、しかし、1995年のWHO総会では科学者のコンセンサスが得られていないという理由で破棄を延期。その後も、バイオテロに対するワクチンや抗ウイルス剤開発に生きたウイルスが必要という意見もあり、現在に至るまで廃棄は実現していない。
各国の思惑がらみで、意見は分かれている。

前出の(社)予防衛生協会の記事(2017.11.21)によると、天然痘ウイルスの人工合成は可能になっているという。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。