東 雑記帳 - 保養のために散歩した西洋人、それを不思議がった日本人

東 雑記帳 - 保養のために散歩した西洋人、それを不思議がった日本人

織田信長の時代に来日したポルトガルのイエズス会宣教師・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」に次の一文がある。
──われわれは散歩を、大きな保養で健康によく、気晴らしになるものと考えている。日本人は全然散歩をしない。むしろそれを不思議がり、それを仕事のためであり、悔悛のためであると考えている。

悔悛のために歩くとは、浅学にして何のことかわからない。刑場に引かれていく場面なのか。
それはともかく、散歩が大きな意味での保養で健康のためになるという考えはなかったのは確かだろう。
明治維新後、西洋の学問やさまざまな事柄が流入、日本人は新しいことを身につけていった。その1つに、福沢諭吉は「散歩党」を名乗り、自分の教え子等とともに健康のために歩くのを日課にした。

散歩という語は中国伝来で、「そぞろ歩き」の意味。日本では漢字も意味も同じものとして使うようになった。今も国語辞典をあたると、「さんぽ(散歩)」は「そぞろ歩き」と説明されている。ちなみに、「そぞろ歩き(漫ろ歩き)」をあらためると、「当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること」とある。かつて、夕涼みに団扇を手に浜辺をぶらついたりしたのが、そぞろ歩きだろう。
また、渡哲也の「東京流れ者」の歌詞に、「流れ流れで東京のそぞろ歩きは軟派でも……」
の様が自分にはしっくりくる。

先のフロイスの言葉における散歩とは、まったく意味が異なる。
西洋では、ギリシャの時代から、哲学者は散歩しながら哲学する習慣があった。
さて、今の日本はどうか。
健康のための運動は歩くことがいちばん良い。歩け、歩け! というわけで、歩くことを日課にする人が中高年を中心にして増えてきた。
この行為を考えるに、日本語の意味の散歩ではないし、フロイスが記した西洋流とも多少そぐわないと思う。

健康のための歩きは、ぶらぶら歩きは効果かない。少し速歩が健康効果を高める。というわけで、ひたすら速く歩くことを心がけ、1日1万歩を目標にする。気晴らしになるかもしれないが、そんなのんきなことは言っておられない。
これは現代の「ウォーキング」というもので、散歩とは別物と考えたほうが適切だろう。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。