病気と歴史 - チャーチルの躁うつがナチス・ドイツから英国を守らせた!?

病気と歴史 - チャーチルの躁うつがナチス・ドイツから英国を守らせた!?

イギリスの政治家、ウィンストン・チャーチル(1874~1965年)は、第1次世界大戦では海相、軍需相、陸相などを歴任。第2次世界大戦勃発とともに海相となり、さらに1940年に挙国一致内閣を組織して首相となった。

チャーチルは、政務よりも冒険好きで、名声を求めるのを愛したが、その名声欲を満たすために戦争は格好の材料であり、晴れの舞台だった。平時での首相としての評価は、さして高くはなかったという。そして、非常時になると元気が出た。戦争好きともいえようが、事が起きると元気が出るタイプだったようである。

実際、戦争となると、彼は水を得た魚のように元気になり、強力な指導力を見せた。力ある単純な言葉を使って国民の心を奮い立たせ、ヒトラーのナチス・ドイツとの戦いで一身をもって大英帝国を救った。

しかしそのために米国、ソ連の戦略に合わせて調整をしなければならず、米ソの覇権を認めざるを得なかった。ルーズベルト米大統領と会談したその夜、チャーチルは狭心症の発作を起こしたが、そのことが大きなストレスとなったためと見られている。

実はチャーチルは躁うつ傾向があった。このことは比較的よく知られている。『現代史を支配する病人たち』(ピエール・アコス、ピエール・レンシニック著)は、歴史をつくった偉人たちの病気の役割について解き明かした好著で、チャーチルも取り上げられていて、次のような記述がある。

「(前略)かくて彼の性質が見えてくる。すぐに興奮し、大言壮語を吐き、うまい洒落を飛ばし、意地悪な皮肉を言ったり、不機嫌に怒り出したりする。彼の一面は、開けっぱなしでうちとけやすく、幸せな気分にあふれ、小躍りせんばかりに喜ぶ人である。

その反面、憂鬱そのものになることもある。そんな時は『黒い犬』(意気阻喪)を持っているのだと、彼は言っていた。この二つの精神状態が交互に表れるのが、躁鬱傾向の人々の特徴である。チャーチルの躁鬱症は軽かったが、ずっと続いていた」

黒い犬とは、どういう精神状態にあるのだろうか。おそらく、陰気で不気味な犬なのだろう。

同書では、チャーチルの躁うつの原因として、早くから母親の愛情を欠いていたこと、発音の欠陥があったことなどを挙げている。

チャーチルについて書かれた文献や自叙伝を読むと、彼の躁うつがヒトラーとの戦いに勝利をもたらしたとも思える。非常時になると元気が出たというが、それは非常時が彼の躁うつの躁に火を付けたからではなかっただろうか。精神科の専門医によると、躁うつ症の人が、非常にさいして躁に火がつき、躁状態に拍車がかかる、つまり元気、躍動感にあふれることはあり得るという。

またチャーチルは、意識して自分をコントロールする術をたくみに身につけていたと思われる。「午前と午睡の後の1日2度の入浴を日課とし、どんなところへ行こうと必ず午睡をしたが、緊張する力を回復する妙薬だったのだ」と、前出の本では書いているが、この習慣は心をコントロールするために意識して実行していたと思われる。また、気分が落ち込むとよく絵を書いたが、それも気分転換の方法の一つとして自覚してのことではなかったのか。

チャーチルの主治医だったロード・モーランの著書『チャーチル─生存の戦い─』(河出書房新社)に次のような記述がある。

「ウィンストンの精神的に立ち直る気力というのは、はかり知れない財産だ」

「もしウィンストンが最後に敗北を喫するとすれば、それは精神か肉体の挫折によるものではないであろう」

「ウィンストンが生まれつきの大変な心配性だと発見したとき、わたしは自分の入手した証拠がなかなか信じられなかった」

また、ルイス・ブロード著『チャーチル伝』には、

「肉体、精神面での勇気こそ、ウインストン・チャーチルの資質のうちで高く評価されよう戦闘においても、政治においても、彼は、行動家が何よりもたいせつにする、あの美徳を持ち合わせていた。臆病さを持たない軍陣はいないと、ナポレオンは語った。そうだとすれば、チャーチルは自分の感情をおさえ、隠すことに天才的だったといえる」とある。

うつ(メランコリー)が基調にあったから用心深く物事を見極める能力もあったのだろう。ロシアのスターリンの台頭にいち早く警鐘を鳴らしたのもチャーチルだった。

主治医ロード・モーランはその著書の中で、チャーチルが1941年12月27日に心臓発作を起こしたことを暴露している。チャーチルは体に不安を持ちながら首相としての任務に全力を注いでいたのだった。

躁うつに話を戻すと、うつになるとエネルギーが出なくなるが、それはエネルギーがないわけではなく、出せないだけで、エネルギーはため込まれているという考え方がある。うつの時期が終わると、次は躁になるが、躁はため込み、しまい込まれていたエネルギーの爆発である。チャーチルにおいては、それが巧みになされ、政治家としての力となったのではないだろうか。

また、『天才たちの死』には、「チャーチルのうつ病と躁鬱症の発作はチャーチル家系の遺伝である一方、彼のたくましさ母親のジェローム家計から受け継いだものだった」と述べられている。

世界大戦が終わる直前、ポツダム会議中の1945年7月。この月に行われた総選挙で、彼が属する保守党は、クレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。チャーチルは51年に首相に返り咲いたが、すでに77歳で、往年の覇気はなく、くたびれはてていた。議会の答弁でも辻褄が合わないことを言っていたという。

チャーチルは49年に最初の脳卒中の発作に襲われていたし、52年2月、6月にも同様の発作を起こした。55年、首相を辞任し、隠棲した。56年、59年にも発作を起こし、次第に恍惚状態になることが多かったが、生きながらえ、1965年に91歳で生涯を終えた。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる