病気と歴史 - 82歳で家出し肺炎で逝去したトルストイ 遺した手記が崇拝者たちを失望させた

病気と歴史 - 82歳で家出し肺炎で逝去したトルストイ 遺した手記が崇拝者たちを失望させた

ロシアの文豪、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは1828年、由緒ある伯爵家の4男として生まれた。幼くして父母を亡くし、親戚の女性に育てられた。
カザン大学に入学するが、哲学に没頭し中退した。47年に広大な土地を相続し農地経営を始め、農民の生活改善を目指すが、理解されず失敗した。
放蕩生活を送った後、軍隊に入った。軍隊時代の24歳のときに書いた『幼年時代』が雑誌『現代人』に発表され、新進作家として注目を浴びた。
1861年2月、アレクサンドル2世が農奴解放令を発令したが、それに先立ってトルストイは独自の農奴解放を試みたが失敗した。1859年には領地に学校を設立し、農民の師弟の教育にもあたった。60年には教育問題解決のために西欧に旅立ったが、こういう活動を官憲は危険視し、官憲に妨害され、結局学校は閉鎖に追いこまれた。

34歳で結婚。名作『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』を世に出す

1862年、34歳のとき、18歳のソフィアと結婚し、執筆活動に没頭するようになったトルストイは世界文学史上に燦然と輝く名作、『戦争と平和』(1863~69年)、『アンナ・カレーニナ』(1873~77年)」をものにした。
これらの作品は、文明に対する自然の優位というトルストイの自説が盛り込まれている点で、作品の中にトルストイという思想家が姿を現していると評されている。

『戦争と平和』はロシア貴族の生活を描いた社会小説で、副主人公のレービンはまさにトルストイの分身であり、人生の意味を求めて苦悩するが、素朴な農民の知恵によって救われることになる。

名声は世界に鳴り響いたが、すべての作品を否定し、『懺悔』を執筆

トルストイの名声は世界中に鳴り響いていた。しかし、『アンナ・カレーニナ』を書き終えた頃から、内心の虚無感、生の無意味さという観念が彼のトルストイの心を支配するようになり、自殺を考えるようになっていた。

つまり実存的危機に陥ったが、それは回心ともいわれる。
それまでの人生全体に疑いの目を向けはじめた。こうした気持ちをまとめたのが『懺悔』で、それまでの『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を含むすべての作品を「くだらない仕事」「悪徳の書」と否定した。
「私は夢から覚めた」と言い、あらゆる物欲、愛欲、慢心、憤怒、功名心、権勢欲などを、具体的には妻も子供も伯爵という地位も巨額の印税も、すべて捨て去ることを決意した。これによって、妻との確執が決定的なものとなり、この争いが30年以上も続いた。
トルストイは、1884年には最初の家出を試みている。

日露戦争批判が世界的反響を呼ぶ

『懺悔』の回心以降、トルストイは神学に関する論文や政治的・道徳的パンフレットに多大の精力を注ぎ、時代の焦眉の急の問題と深くかかわり、さまざまな時事的発現を行うようになった。
中でも日露戦争批判は世界的反響を呼び、日本の社会主義者たちにも多大の感銘を与えた。80年代には、『イワンの馬鹿』『イワン・イリイチの死』『クロイツェル・ソナタ』、『人生論』、『芸術とはなにか』などの著作を発表した。

1890年代後半には、トルストイは、専制政治は戦争を引き起こし、戦争は専制政治を支えると考えるようになり、戦争と闘いたい人は専制政治と闘うべきであると主張しはじめた。1899年には、兵役を拒否したドゥホボール教徒たちを海外に移住させる資金を得るために、最後の長編小説『復活』を書き上げた。
国際的な世論を恐れたロシア政府は、トルストイの自由を奪うことができなかったが、1901年1月、宗務院はトルストイを破門にした。それ以後のトルストイは、古いロシアの終焉を全身で感じながら、ニコライ2世やストルイピン首相にあて、暴力と死刑の私有の政治を痛烈に批判する手紙を出し続けた。

偉大な思想家で、日本の文壇、論壇にも多大な影響を及ぼす

トルストイは、たんなる作家ではなく、思想家であり、人類の教師、人類の良心として尊敬され、その教義や主張は世界中で受け入れられ、大きな影響を与えた。それはトルストイ主義と呼ばれ、日本の文壇、論壇にも多大な影響を及ぼした。
島崎藤村は『破壊』を書くにあたり『アンナ・カレーニナ』を研究したし、河上肇は『人生の意義』を翻訳している。
1906年にトルストイを訪ねたことがある徳富蘆花は、大逆事件に際し幸徳秋水の処刑に対する批判講演を第一高等学校で行った。蘆花が秋水を弁護した理由は、日露戦争を前にトルストイが『ロンドン・タイムス』に発表した非戦論『考え直せ』を秋水が『平民新聞』に掲載した英断へ共鳴したことにあった。

82歳で最後の出奔しての死について、論争が起きる

妻との確執に耐えかトルストイは何度も家出を図ってはとりやめたが、1910年10月28日、82歳にしてついに決行した。日記にその旨を記し、未明、列車に乗り、行方不明になった。
出奔して4日目、トルストイは汽車の中で熱を出した。肺炎だった。11月20日、駆けつけた妻や家族に看取られ偉大なる生涯を終えた。

没後、トルストイの日記が刊行され、その実像が明らかになった。この日記によって、わが国では、正宗白鳥と小林秀雄による「思想と実生活」論争を呼んだ。
白鳥は、
「人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤独独邁の旅に出て、ついに野垂れ死にした経路を日記で熟読すると、悲壮でもあり、滑稽でもあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである。ああ、我が敬愛するトルストイ翁!」と言ったという。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。