病気と歴史 - 農村復興に尽力し、その仕法と思想は社会に広く浸透した、二宮尊徳

病気と歴史 - 農村復興に尽力し、その仕法と思想は社会に広く浸透した、二宮尊徳
没落した家を再興 

かつて日本全国あちこち小学校の校庭には、二宮尊徳の銅像が見られたものである。薪を背負い、本を読みながら歩く姿。刻苦勉励の象徴であった。
二宮尊徳(幼名、金次郎)は、江戸時代中期、天明7年(1787)に小田原の貧農の家に生まれた。14歳のときに父が、その2年後に母も死去。伯父の家に預けられた尊徳は農業に励んだ。

荒れ地を復興させるとともに、僅かに残っていた家作を小作人に貸し出したりして収入の増加を図り、20歳で生家を復興させた。この間、そのかたわら、『論語』や『大学』『中庸』などの古典を独学で学んだ。

仕法として農村を復興させる

生家を復興させてからは、尊徳は地主経営の一方で、武家奉公人としても働き、奉公先の小田原藩家老服部家の経済を見事立て直した。これによって、小田原藩内で彼の名が広く知られるようになった。その才能を見込まれて、下野国桜町領の仕法を任せられた。
仕法とは、物事を行う方法、仕方のことである。具体的には、得意な計量的な、合理的な農法によって、農村を復興させる。尊徳はその後も次々とこの仕法によって農村を復興させた。その数は600村余りに上り、大きな功績を残した。尊徳の仕法は、他の農村の規範になった。

尊徳の仕法は、独自の哲学、倫理学が背景にあった。それを彼は後に尊徳思想として打ち立てた。道徳と経済の両立を説いており、「自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のすべてのものに感謝し、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになる」というものである。
この尊徳の思想を実践して、農村の更生を図る結社として、天保14年(1843)に小田原報徳社が結成され、その後、

慢性の背痛症で寝たきりになり、70歳で他界

尊徳は嘉永六(1853)年、幕府から日光神領の荒れ地開拓を命じられ、骨身を砕いて働いていたが、この頃から、過労のためか病気がちになった。『日本史有名人の臨終図鑑』(篠田達明、新人物往来社)には、熱中症で倒れたのがきっかけだったとある。

けれど、尊徳は「駕籠に乗っていては土がわかるものではない」と、杖をつきながら山野を歩いて責務を果たした。この功績によって、安政3年(1865)、幕府から初めて御普請役という役人の地位を命じられ、30俵3人扶持を受けることになった。しかしこの頃、彼は寝たきりになっており、翌年10月に他界した。70歳だった。
尊徳は、身長6尺(1.80m)、体重23貫(86㎏)の偉丈夫だったが、前出の篠田氏の本によると、尊徳は66歳の頃から原因不明の背痛症を患っていて、翌年からそれが悪化したという。

この慢性痛が寝たきりの要因となったと思われるが、背痛症の原因について、前出の本で篠田氏は、
「こどものころタキギを背負いながら本を読んだ影響がいまごろになってでてきたものか、それとも変形性脊椎症などによる背中の痛みであろうか」と述べている。
なるほど、生活習慣の影響で背骨は曲がる。骨が成長期の子どもの頃にかけた負担が、遠因なのだろうか。ただし、薪を背負って歩いただろうが、本を読みながらなではなかったようである。
とはいえ、一生を通し働きすぎたことは影響しているだろう。

尊徳の教えについては、報徳社と報徳会がつくられ、尊徳の教えを今も伝えている。また、
現代では尊徳の銅像が校庭にある小学校は減ってきたが、一方で、新たに建立する小学校もある。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。