病気と歴史 - 貴族政治の終焉を早めた藤原道長の糖尿病は、権力にとりつかれた者の病だった

病気と歴史 - 貴族政治の終焉を早めた藤原道長の糖尿病は、権力にとりつかれた者の病だった
9世紀、天皇親政が終わり、藤原氏摂関政治がはじまる 

延歴13年(794)、桓武天皇は都を平安京に遷した。この平安京遷都後、律令制度の立て直しが行われたが成功せず、9世紀後半には藤原氏による摂関政治が始まった。天皇親政の終焉だった。
摂関政治はおよそ280年続くが、その全盛期に摂政関白となり、権力をほしいままにしたのが藤原道長だった。

日本史上もっとも比類なき権勢を誇った政治家の1人であると評される道長は康保3年(966)、公卿、藤原兼家の5男として生まれた(4男という説もある)。兼家が摂政になり権力を握ると道長も栄達し、正暦2年(991)年に26歳の若さで権大納権になった。
しかし5男であり、道隆、道兼という強力で有力な兄がいたためにさほど目立たなかったし、自身それほど出世できると考えていなかったはずである。

強運に恵まれ、30歳で政権を掌握

ところが、30歳になったとき突然、強運が向いてくる。長徳元年(959)年4月、関白になっていた道隆が疫病であっけなく死亡し、さらに道隆の後を継いだ道兼も関白になってわずか7日で亡くなったのだった。
そのため、道長はこの年の5月、30歳で左大臣となった。こうして政権をにぎった道長は、兄道隆の子である伊周と隆家を権力闘争で失脚させることによって、自らの政権を強固なものにしていった。
やがて、長女の彰子を一条天皇の中宮とすることに成功する。彰子は一条天皇との間に、後の後一条天皇、後朱雀天皇となる男子を次々に産んだ。道長はそれだけでは満足せず、一条天皇の後を継いで即位した三条天皇に次女の妍子を中宮として送り込んだ。

摂政の地位を得、栄華をきわめる

長和5年(1016)正月、道長はかねて眼病の三条天皇に譲位を迫り、後一条天皇の出現によって外祖父として待望の摂政の地位を得た。その後も、後一条天皇の中宮として3女の威子を敦永親王(のちの後朱雀天皇)の東宮妃として末子嬉子を送り込み、天皇外戚として確固たる地位を築いていった。ちなみに、嬉子は第一王子親仁を出産したが肥立ちが悪く2日後に急逝した。
寛永2年(1018)10月16日、三后鼎立の祝宴で道長は、「この世をば わが世とぞ思う望月の かけたることも なしと思えば」と詠んだ。有名な望月の歌である。ときに道長53歳。この世は自分の思いどおりに動くものとなった。
しかし、このとき、道長は病苦にさいなまれていた。

望月の歌を詠んだ頃、じつは重症の糖尿病だった

道長は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルといわれるほどの美丈夫で聞こえていたが、それがいつからか、でっぷり肥えていた。長和5年(1015)の5月ごろから、51歳の道長はしきりに渇きを訴え、水を多量に飲むようになっていた。道長の病気については病跡学の専門家が取り上げているが、『王朝貴族の病状診断』(服部敏良、吉川弘文館)で詳しく論じられている。
それを参考にすると、藤原実資の日記『小右記』に、
「摂政仰せられて云ふ。去三月より頻りに漿水を飲む。就中近日昼夜多く飲む。口乾き力無し。但し食は例より減ぜず」とある。

ひどい飲水病(現在の糖尿病)にかかっていたのである。そして18日の『小右記』は、「枯槁の身体未だ尋常ならざる如し」と記している。望月の歌を詠んだころにはやせていて、体力も著しく低下していた。視力の低下も目立っていたが、糖尿病の合併症による白内障と思われる。

怨敵の亡霊に怯え、悩まされる

栄華を極めた道長であるが、その後、5女寛子(道長の謀略によって皇太子の位を退いた小一条院の妃となった)、4女嬉子(後朱雀天皇の妃)、次女妍子と、娘たちが次々に死亡する不幸に見舞われた。それは物の怪による仕業と噂された。
道長は、己の権勢欲の具に供せられた娘たちが怨敵の亡霊によって次々と死の世界へ誘われていくことに怯え、兄、道兼の怨霊にもひどく悩まされた。武力ではなく、奸智で権力を争う時代において、神経は異常に過敏になり、物の怪に怯え、心身をすり減らし、消耗させていったという見方もなされている。

万寿4年(1027)、62歳のとき、道長は10月には疫病にかかり、11月には失禁状態になり、さらに背中に乳房ほどもある癰というできものができた。医師が針を刺して膿を出すと、道長は悲鳴を上げ、2日目の12月4日午前10時頃に息を引き取った。

疫病にかかり、癰ができて死亡

道長はもともと健康な体質でなく、一生の間にいくつもの大病にかかっている。道長の直接の死因は、廱(よう)と呼ばれる腫物ができたことといわれている。廱というのは悪性で危険なできもののことで、現在でいう化膿症のことである。実際、糖尿病になると化膿しやすいし、道長の廱も糖尿病の合併症によるものと考えられる。

道長の父、道隆も伯父伊尹の死因も糖尿病と推測されており、服部敏良氏は先の著書で、遺伝性糖尿病との見方を示している。そういう体質のうえに、糖尿病になりやすい生活をしていたため、なるべくしてなったとも考えられよう。
自分の脚で歩く機会もほとんどなかっただろうし、体を動かすことも少なかったはずである。スポーツもない時代であったし、道長のような貴族として生まれ育ってしまうと、武士のように訓練や武道に励む必要もない。その一方で、毎日の食事はかなり贅沢だったはずである。

平安時代の食事は、カロリーが高いものは少ないが、それでも贅沢をしていたはずで、そこに運動不足が拍車をかけたと思われる。また、当時の酒は糖度が高い濁り酒だったが、そのことも原因の一つかもしれない。

道長は権力にとりつかれた病で、ゆえに、ますます権力にとりつかれる

さらには、権力を指向し、権力闘争に明け暮れるストレスも血糖値を上げる要因になったと思われる。立川昭二氏名は『病いと人間の文化史』(新潮社)で次のように述べている。

「藤原道長のカルテをたどると、糖尿病にしても心臓病にしても、まさに権力ゆえにとりつかれた病いであり、そしてその病いゆえにますます権力にとりつかれていく──。こうした権力者特有の病理は、ひとり道長だけの話ではない。現在、わたしたちの身のまわりの大小の権力者たちにも、こうした病理は生きつづけているのである」
権力にとりつかれた者の病だというのである。

道長亡き後は息子の藤原頼道が摂関の地位に就き、しばらくは最盛期は続いた。しかし、平安時代後期になると、東北には武士が跋扈するようになっていくともに、藤原氏と婚姻関係を持たない上皇による院政が始まり、藤原家の権勢は後退していった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。