病気と歴史 - 血液型の発見者、カール・ラントシュタイナーは、循環器の病気、心筋梗塞で逝去

病気と歴史 - 血液型の発見者、カール・ラントシュタイナーは、循環器の病気、心筋梗塞で逝去
代表的分類法のABO式血液型を発見 

血液型を発見したカール・ラントシュタイナーは、1868年、オーストリアのウィーンで生まれた。両親はユダヤ系で、父親はウィーンで高名なジャーナリストで新聞社社主だった。
1891年にウィーン大学で医学の学位を取得。化学にも精通していた。血液型を発見したのは1900年で、翌1901年に論文に発表した。

血液型の分類法としては現在まで、ABO式血液型、Rh血液型、HLA血液型をはじめ、約300種類が発見されている。これらのうちもっとも有名なのがABO方式で、ラントシュタイナーが発見したのがこのABO型血液であった。ラントシュタイナーは、人の赤血球が他人の血清によって凝集することから血液型の存在を発見した。当初、A型、B型、C型の3つに分類されていた。
1902年に、アルフレッド・フォン・デカステロとアドリアノ・シュテュルリによって第4の型が追加発表された。その後、第4の型にAB型という名称がつけられ、ラントシュタイナーによってC型とされていた型の名称はO型に変更された。

輸血の進歩と外科手術に貢献

血液型の発見は、その後の輸血の進歩と外科手術に大いに貢献することになった。輸血の歴史を遡ると、現代の常識からは到底考えられないが、子羊などの動物血の輸血が始まりだった。17世紀初頭のことだった。当然、血液型不適合による死亡事故が起きた。

人間同士の輸血が初めて行われたのは1818年で、イギリスの産科医ブランデルががん患者に輸血したが、失敗に終わった。1825年、ブランデルは出血時に大量失血して瀕死状態に陥った妊婦に輸血し、成功した。世界初の快挙だった。
しかし、血液にはいろいろな型があることはわかっていなかったし、血液を体外に取り出したときに固まってしまう問題も残っていた。そのため、重大な事故や、さらには死亡事故が起きるのは当然のことであった。

それが20世紀初頭に血液型が発見され、さらに1905年、米国の生理学者リチャード・ルーイソンが抗凝固剤にクエン酸ナトリウムが使えることを突き止めた。こうして一挙に輸血と外科手術は進歩することになったが、その端緒を拓いたのはラントシュタイナーだった。

血液型の発見でノーベル賞を受賞

ラントシュタイナーは、1911年にウィーン大学の病理解剖学の教授となった。ウィーン大学における研究生活では、梅毒に関する研究や免疫因子の発見なども行うなど、血液学だけでなく、細菌学、免疫学においてもすぐれた業績を残した。
1922年にアメリカに移住し、ロックフェラー研究所の研究員になったが、背景にナチス・ドイツによるユダヤ人迫害があった。
1930年、人血液型の発見によってノーベル賞(生理学・医学賞)を受賞した。

迫害された後もRh型を発見

1938年にはナチス・ドイツはオーストリアを併合。ユダヤ人であるラントシュタイナーは祖国オーストリアでの名誉を失った。1939年にはロックフェラー研究所を退職し、同研究所の名誉教授となったが、研究を続けた。ユダヤ人であることに翻弄され続けた研究人生
だったといえよう。
同年、ラントシュタイナーはアレクサンダー・ヴィナーと、アカゲザルを用いた実験によってD抗原を発見し、論文に発表した。アカゲザルは英語での通称がRhesus Monkey であるために、Rh因子と呼ばれるようになった。
比較的よく知られているが、Rhは+と-に分けられる。大半の人が+で、Rh-型の人にRh+の血液型の血液を輸血すると、血液の凝集、溶血などのショックを起こすことがある。

ノーベル賞受賞から13年後の1943年、ラントシュタイナーは実験室で研究中に心臓発作を起こして2日後に逝去。75歳の生涯を終えた。心筋梗塞だった。心筋梗塞は冠動脈の動脈硬化を基礎疾患として発症する。血液型の発見者が循環器(血液・血管)の病気で亡くなったのだった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。