病気と歴史 - 社会主義革命を成功させたレーニン。脳卒中を起こしてスターリンの操り人形となった

病気と歴史 - 社会主義革命を成功させたレーニン。脳卒中を起こしてスターリンの操り人形となった
1917年にソビエト連邦首班となるも、翌年には体は著しく衰えていた 

社会主義革命を成功させ、1917年にロシアに世界最初の社会主義国家、ソビエト連邦共和国を建国したウラジミール・イーリッチ・レーニンは1870年にロシアで生まれた。学生時代から革命運動に従い、1917年にケレンスキーを斥けて十月革命を成功させ、ソビエト連邦の首班となった。マルクスの資本論を翻訳し、マルクス主義を帝国主義の時代の理論として発展させ、国際的革命運動に大きな影響を与えた。

成功人生を歩み続けていたが、レーニンの体は1918年ごろ、すでに著しく衰えていた。顔色は青白く、目の周りは‘くま’ができ、虚脱状態でふらつき、虚脱状態もしばしばだった。そのことを隠し続けていたが、1920年、第8回ソビエト大会の席上、あまりの気分の悪さに演説を辞退し、病気であることを公けに認めた。

発作をくり返し、スターリン排斥もかなわず、54歳で死亡

1922年5月、レーニンは最初の発作を起こし、右手と右足が麻痺し、言葉が不自由になり、ときにはまったくしゃべることができないこともあった。それでもその年の11月に開かれた第4回コミンテルン大会には出席し、演説さえした。
強靱な精神力でなしたのだったが、いつもの明快さ、力強さはなく、口ごもりがちのぎこちない演説だった。動作も鈍くてロボットのようだったと出席者は描写している。

当然、政権における影響力は低下した。死ぬ直前のレーニンは、後に独裁者としてソ連に君臨するスターリンとの間で密かな権力闘争をくり広げていた。
同年12月にレーニンは2度目の発作を起こし、病状が急速に悪化していった。その病中で、民族問題における大ロシア拝外主義の現れを厳しく戒め、スターリンを党書記長のポストから解任することを求める遺書を起草した。スターリンに謝罪か絶縁かの選択を迫る手紙を口述筆記させた。
しかし、翌1923年に3度目の発作を起こすと、話すこともできず、ほとんど廃人状態になって10か月を過ごしたのち、1924年1月に4度目の発作を起こして亡くなった。54歳だった。

スターリンの息のかかった医師団に囲い込まれ、周囲から遮断されたレーニン

レーニンが発病した後、スターリンは自分の息がかかった医師団によってレーニンを囲い込み、周囲から巧みに遮断した。レーニンは自分のメッセージを外に出そうにも出せなくなった。レーニンがいくら望んでも自らのメッセージを外に伝えることはできなくなった。逆に、スターリンはレーニンの権威ある名前で勝手に政治を動かすことができた。

このようにして、スターリンはレーニン側につく政敵を少しずつ追いつめていくと同時に味方を増やしていったのである。スターリンは後に多くの政敵を粛清したが、レーニンの病気を利用した隔離や遮断はその序曲だった。
また、体の自由が利かなくなったレーニンがスターリンを呼び出し、「声が出なくなってまで生きたくないから、毒をもってくるように」というエピソードがある。つまり、スターリンが毒殺をしたというのだが、これはトロッキーが権力をにぎるために流布したと、今日では見られている。

レーニンの死因は公式には動脈硬化による脳卒中によるものであるが、スターリンによる毒殺説もある。レーニンの死後、スターリンが詳しい事実をことごとく隠蔽してしまったため、レーニンの死も含めてソ連の歴史はいまだに明らかでない部分が多い。
レーニンの死骸はミイラにされ、赤の広場があるレーニン廟に今もガラスの棺に入れられて展示されている。

スターリンに都合がよかった、左半球の脳障害

死後、遺体は解剖され、報告によると、脳全体が動脈硬化に侵されており、たくさんの梗塞ができていた。脳の血液循環、特に左半球の血液循環が著しく阻害されており、四回の脳卒中の痕跡が残っていた。

頭蓋底部の動脈の硬化が甚だしく、脂肪のかたまりが左頸動脈を内部から詰まらせていた。粥状硬化と言われる動脈硬化で、死因は動脈硬化から来る脳卒中だった。また、硬化した血管を取り囲んで、脳組織全体に小さな穴がたくさん開いているのが認められた。脳軟化症であった。
血管に出血や梗塞が生じると、その血管で血液を供給されている脳に充分な血液が送られなくなる。そのため、酸素が供給されなくなった部分の脳細胞が死滅してしまい、その結果、その部分に機能障害が発生し、身体にいろいろな症状が現われる。レーニンの場合、右手と右半身が麻痺したことから左側の脳に障害が生じたと思われる。

人の脳は右半球と左半球の2つの部分に分かれている。右半球の部分は身体の左の部分、すなわち左手や左足を支配しており、左半球は逆に右の部分をコントロールしている。左側の脳に障害が生じると、身体の右側の運動能力が低下すると同時に言葉の発声や理解力が低下すことが多い。まさにレーニンの症状であり、レーニンを周囲から隔離しておきたかったスターリンにとってはひどく都合のいい症状だったといえよう。

レーニンはスターリンを前途有望な青年革命家として引き立てたが、最後はスターリンと暗闘をくりひろげたのは歴史上ありふれたこととはいえ皮肉なことというほかない。スターリンは、後継争いのもう一方の雄、トロッキーを暗殺し、権力を掌握した。
レーニン死して、スターリンの独裁が始まり、粛清という大殺戮が行われた。スターリンは1953年3月5日に亡くなり、公式の死因は脳出血であった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。