病気と歴史 - 浴衣や下駄を好み、箸で刺身やお茶漬けを食べ、日本を愛した小泉八雲は欧米型の病気、心筋梗塞で急死

病気と歴史 - 浴衣や下駄を好み、箸で刺身やお茶漬けを食べ、日本を愛した小泉八雲は欧米型の病気、心筋梗塞で急死
日本に興味を抱き、来日し、英語の講師に 

小泉八雲は、雪女や耳なし芳一などの日本の怪談を再話したことで、今も広く知られている。小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンは、1850年6月、イギリスの軍医、チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ娘、ローザとの間に生まれた。
複雑な家庭環境で育ったこともあり、19歳のときにアメリカに単身移民し、苦労しながらジャーナリスト、作家として成功した。

明治17年(1884)にニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国、外務省の服部一三に遭ったことがきっかけで、ハーンは日本に興味を抱くようになった。
同23年(1890)に来日。服部一三の斡旋で島根県立松江中学と島根県尋常師範学校の英語講師になり、松江に赴任した。翌年、熊本の第五高等中学校へ移った後、神戸で一時英字新聞の記者を勤め、同29年(1896)から東京帝国大学で英文学を講義した。

日本の怪談を再話

一方で、この間、作家として、出雲の生活を描いた『知られぬ日本の面影』や日本の怪談の再話など十数作の作品をものにした。
私生活では、同24年(1891)1月に、松江の士族の娘、小泉節子と結婚。同29年(1896)に帰化した。八雲の名は、出雲の国の枕詞、「八雲立つ」にちなんだ。
同36年(1903)春、ハーンは東京帝国大学の職を失ったが、翌37年(1904)に早稲田大学に講師として勤め始めた。

浴衣や下駄を好み、箸で刺身やお茶漬けを食べ、日本人以上に日本と松江を愛した。このとき、3人の男の子と、前年生まれたばかりの女の子がいた。

2度目の心臓発作で死亡

ところが、死が突然訪れた。同年9月19日、書斎で書きものをしていたとき急に、「私、新しい病気得ました。…この痛み…多分私死にましょう」と言って、妻を慌てさせた。医者が来たときは痛みは消えていて、ハーンは「ごめんなさい。病い、いってしまいました」と笑って答えたという。狭心症の発作だった。
同月26日の夕方、「ママさん、先日の病気、また参りました」と、小さな声で妻に告げた。妻は彼をベッドに寝かせたが、すぐに息絶えていた。死因は心臓麻痺(心筋梗塞)と思われた。54歳だった。

第2次世界大戦以前、日本には心筋梗塞はほとんどなかったといわれる。心筋梗塞は欧米型の病気であった。箸で魚を食べ、和風の生活を愛した八雲だったが、それは心筋梗塞の予防に役立たなかったのだろうか。

ハーンは日本についての著作を英語で発表したが、日本を美化し過ぎているとの批判もあった。天皇制肯定論者でもあった。ある日本研究者が「ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅していた」といったという話もあるようだ。もし、もう少し長生きしていれば、従来とは違う視点からの日本論を書いたのだろうか。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。