病気と歴史 - 明治維新と不平等条約が島国日本にコレラをもたらした!

病気と歴史 - 明治維新と不平等条約が島国日本にコレラをもたらした!
コレラは本来インドの一地域だけの風土病だった 

コレラはもともと、紀元前400年頃からインドのガンジス河流域、とくに下ベンガルのデルタ地帯に居座り、これらの地域のみで流行した風土病的性格の疫病であった。アラビアやヨーロッパの渡航者たちはこの病気を知っていた。コレラの語源はラテン語の「胆汁が流出する」という言葉から派生したものである。古代ギリシャの医学書にもコレラという言葉は出てくるが、この当時のコレラは夏場に流行する食中毒を指していた。

アラビアやヨーロッパでは遠い異国の病気の1つにすぎなかった。それが19世紀に入って間もない頃、国際社会に登場し、6回も世界的大流行(パンデミック)を引き起こし、ほぼ1世紀にわたって世界中の人たちを震え上がらせることになる。

幕末の日本にも上陸し、猖獗を極める。島国の日本がその日本侵入を防ぐことができなかったが、そのわけは欧米列強との間に結ばれた不平等条約であった。

2度のパンデミックで世界中に広がる

パンデミックの端緒は1817年8月、インドのカルカッタでの大流行にあった。それが東方へ広がっていってアジア全土、中国、ロシアの南部、朝鮮、日本へ、西方へはセイロンからペルシャ、ヨーロッパへと広がっていった。
なぜ、世界的に拡散したのか。その理由はヨーロッパ人がインドへ進出したこと、通商の迅速化と拡大などにあるといわれている。
ペルシャではコレラは横暴を極め、ロシア帝国は広大なイラン領土を手に入れることになったが、ロシア皇帝軍も感染し数万人の兵士の命が失われた。

コレラの世界的流行は間もなく終わるが、1826年からは再びパンデミックが起こる。北進したコレラは中国からロシアに蔓延した。1830年にはモスクワが侵され、ワルシャワ、ベルリン、ハンブルグを経て、イギリスを経て1823年にはフランスのカレーとアラースに到達するとともに、アメリカにも渡った。この2回目のパンデミックは1852年まで続いた。

いち早く公衆衛生法を制定した英国。紅茶文化はコレラ対策として生まれた

当時世界でもっとも産業革命が進み、公衆衛生の面でも最先進国であったイギリスでは、1848年に公衆衛生法が制定された。この公衆衛生法の主な目的はコレラの流行への対策であった。
当時のイギリスでは、コレラが飲料水によって伝染することがすでに証明されていたのである。公衆衛生法には上下水道の整備、水の汚染防止、防疫、食品の衛生管理などが盛り込まれていた。そのため、コレラが生水を飲むことによって伝染することは、常識とされていた。

それまで井戸水などの生水を飲料水としてきたイギリス人が、コレラから身を守るために飲みはじめたのがティー、すなわち紅茶であった。熱湯にすればコレラにならないですむことがわかったわけで、イギリスのティータイムという文化はコレラによって誕生したのである。

3回目のパンデミック。日本でも多数の人々が死亡

日本に話題を戻すと、最初のパンデミックのさい、朝鮮半島から対馬を経て長門に1822年(文政5)に侵入したのが日本最初の流行となった。しかし、第2次パンデミックは幸運にもコレラの侵入からまぬがれたが、日本は鎖国中で、そのことが幸いしたと考えられている。
3回目のパンデミックは1840年に起こり、東南アジア、中国でも大流行し、1858年(安政5)に長崎に上陸した。のちに「安政のコレラ」と呼ばれるこの大流行は3年にわたって続いた。
九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。

1862年(文久2)には、残留していたコレラ菌によって日本で3回目の大流行が発生し、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万3000人から数10万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多いようである。

鎖国解除、不平等条約で検疫が認められなかった

実はこの安政のコレラ大流行の原因として、日本の鎖国解除と欧米列強と結んだ条約が深くかかわっている。安政のコレラが発生したその年の6月19日には日米修好条約が結ばれ、日本は260年にわたる鎖国を解いた。
その後、欧州列強の各国と日本は条約を締結したが、それら列強に対して明治日本は非常に弱い立場でスタートしたのだった。ペリーの黒船によって開国させられた日本は、列強に対して治外法権を認める不平等条約を結ぶことになり、そのもとではなんと検疫が認められていなかったのである。

コレラ菌が発見されたのは明治維新から16年後の1884年(明治17)で、第5次パンデミックの真只中にあった。その以前からコレラが伝染病であることはわかっていたし、その侵入を防ぐのに検疫が有効な手段であることも十分に認識されていた。
にもかかわらず、ヨーロッパの列強は日本に対して検疫を認めず、不平等条約によって得られた既得権を譲ろうとはしなかった。

維新後の最初のコレラの流行は1877年(明治10)9月に横浜で発生した。それに先立つ7月、アモイの日本領事から外務省にアモイでコレラが流行しているとの通報があった。
明治政府が検疫を行ないたいと要請したのに対して、イギリスを中心とするヨーロッパ列強が反対し、その間にコレラが上陸し、1879年に大流行が発生してしまったのである。
この年のコレラ大流行では、16万人の患者が発生し、死者は10万人を超してしまった。

国民の怒りが不平等条約改正の原動力になった

その後、日本で何度もコレラが流行したが、その原因が不平等条約にあると知りはじめた国民の怒りは、条約改正運動の大きな原動力になっていった。やがて、1899年に条約改正に成功し完全な独立国となった明治政府の手によって検疫が行なわれるようになると、コレラの流行は下火となっていった。
条約改正に対してコレラが果たした役割は決して小さくはなかったのだった。
伝染病が文明と社会を変えることによって、歴史が大きく変動していくことは、ペストとコレラの話からもわかるだろう。ペストとコレラだけでなく、歴史を変えてしまった微生物は少なくない。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。