病気と歴史 - 大帝国を築いた秦の始皇帝 不老長寿の夢かなわず急死して帝国は崩壊した

病気と歴史 - 大帝国を築いた秦の始皇帝 不老長寿の夢かなわず急死して帝国は崩壊した
奇貨として、秦王の地位につけられる

古代中国の皇帝のスケールは度はずれている。その代表的人物というと、秦の始皇帝をおいて他にないだろう。中国大陸を初めて統一した始皇帝(秦王政)は春秋戦国時代末期の紀元前246年、13歳で父、荘襄王(子楚)の後を継いで秦王の位についた。この背景には呂不韋の謀略があったと見られている。秦王政の父は呂不韋だったという説があり、真実と信じられている。

韓の豪商の次男だった呂不韋は、趙の都邯鄲に商用で出かけたおり、偶然、秦の太子安国君の庶子、子楚が人質としてこの町に住んでいることを知った。そのとき、この商人にすばらしい霊感がひらめき、こう口走った。
「この奇貨、居くべし(これはすばらしい掘り出し物だ。取っておけば、えらい値打ちになるぞ)」

呂不韋は不遇をかこつ子楚に近づき、財力にものいわせて投資すると同時に、巧妙に政治工作して、ついに子楚を秦王の地位につけることに成功したのだった。
この話は司馬遷の『史記』の「呂不韋伝」に書かれていて、呂不韋のこの言葉『奇貨、居くべし』は故事に基づく諺として残り、今もよく知られている。

法治主義、中央集権化をめざし、39歳で戦国の6国を統一

周(紀元前1046年頃~紀元前256年)が滅びた後の中国は諸国が群雄する春秋戦国時代が続いていた。秦王政は即位してから10年、呂不韋を排して実権を掌握し、法治主義による政治を行い、中央集権化を目指した。
また、北方の騎馬民族を恐れ、その対策として万里の長城を築いた。そして、即位17年目に戦国の6国全部を滅ぼして全国統一を実現した。時に39歳だった。
度量衡、貨幣、文字の統一をし、交通を整備し、経済や文化面で中国を1つの基準でまとめ上げ、商業の発展に多大な貢献をした。儒家は中央集権主義的な政治に反対したが、これを徹底して弾圧し、後に悪名高い焚書坑儒を行った。

中国史上初めて、皇帝という称号を用いる

秦王政が全国を統一して最初に行ったのは、支配者としての自分の称号の決定で、皇帝という称号を中国の歴史上初めて用い、始皇帝と名乗った。
皇は天帝、つまり、天の偉大な神、宇宙の支配者の意味で、『酒池肉林』(井波律子、講談社現代新書)によると、帝は伝説の5人の聖王「五帝」から採ったものであるという。
同書によるとまた、皇帝専用の自称を「朕」に定めたが、こうした称号を新設した狙いは、自らを一般の人間とは隔絶した高みに位置づけようとすることにあった。自分を宇宙の支配者になぞらえ、しかも「始」を付けているのだから、始皇帝という名称は、宇宙を初めて支配した者とも、宇宙をつくった人間とも解釈できる。

始皇帝がつくった宮殿として「阿房宮」があるが、前出の本によると、阿房宮は地上と天上を対応させる目的もあった。また、現代になって、数千に上る等身大の官吏、兵士、馬などの土偶(兵馬俑)を納めた始皇陵が発見されたが、冥界をも支配したいという願望を表したものだという。

不老長寿の仙薬を求めるも、50歳で急死

一方で、死を恐れ、不老長寿を願った始皇帝であるが、方士除福に不老不死の仙薬を探させた皇帝になってから10年、50歳の時のこと。真夏の暑い時期、巡幸を終えて都に帰ろうとした始皇帝は、突然激しい頭痛に襲われ、全身のけいれんを引き起こし、そのまま意識不明になり、数日間で息絶えたのだった。

死因は疫病、結核性脳髄炎、脳腫瘍などの説があるが、『歴史人物お脈拝見─著名人も悩んだ病気のあれこれ』(坂東定矩、ぎょうせい)では、「くも膜下出血としたほうがよいのではないかと思う」とある。
その理由として、何の前触れもなく起こったことを挙げ、暑い真夏の巡幸が誘因となったと考えられなくもないと述べている。
現代人が想像もつかないほどの権力と富を持ち、それを駆使して不老長寿の薬を探させた始皇帝だったが、その結果は権力も富も役に立たなかった。

死後、王朝は内部から崩壊し、帝国は3年で滅亡した

権力一局集中の体制は、権力者がいなくなったとき、もろく、はかない。いっさいの批判を封じこめる独裁権力は必ず内部から崩壊するという鉄則どおり、始皇帝の死後、2世皇帝胡亥が後を継いだとたん、王朝は内部から崩壊しはじめた。
同時に各地で反乱が起き、瞬く間に中国全土に騒乱状態が広がり、この戦乱のまっただ中から、やがて項羽と劉邦という2人の英雄が忽然と浮かび上がってくる。

2世皇帝は紀元前207年、劉邦の軍勢が咸陽に迫った時点で自殺。すでに自壊状態にあった秦王朝は、始皇帝の死後わずか3年で滅びてしまった。やがて劉邦を押しのけて咸陽に入城した項羽の軍勢は破壊と殺戮の限りを尽くした。阿房宮をはじめとする宮殿はすべて火をかけられ、3カ月にわたって燃え続けたという。
徐福が不老長寿の薬を発見したとすれば、始皇帝は永久に権力を持ち続けたであろうが、不良長寿はあり得ない。また、この時にくも膜下出血にならなかったとすれば、もっと長く生き、栄華は続いただろうが、それにも限りがある。
いっさいの批判を封じこめる独裁権力は必ず内部から崩壊するという鉄則どおり、
いずれ始皇帝の死とともに秦は滅びたに違いない。

始皇帝は中国全土統一という偉業を遂げて歴史を変えたが、その死によってまた歴史は変わっていった。秦以後の中国は、3国の時代をへて、高祖劉邦が漢王朝を設立。前漢、後漢をあわせて約400年、中国全土を支配し続けた。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。