病気と歴史 - 偉大な科学者ニュートンは、錬金術にはまり水銀中毒に陥っていた

病気と歴史 - 偉大な科学者ニュートンは、錬金術にはまり水銀中毒に陥っていた
母との関係が人格形成に影響 

世界的な偉人、偉大な科学者アイザック・ニュートンは、1642年にイングランドの東海岸の寒村で比較的裕福な農民の子として生まれた。父はすでに他界していた。母はニュートンが3歳のとき再婚し、ニュートンは祖母に育てられた。14歳のときに母はまた夫を失い、ニュートンのところへ戻ってきた。
母との関係が、ニュートンの人格形成に影響したようで、ニュートンは子供のころは無口で陰気だった。学者になってからは、敵対する相手への報復は執拗で陰湿だった。
家庭環境に問題があったが、ニュートンはグランサムのグラマースクールに入学した。父のような人間にしてはならないと思った母の意向だったとも言われる。

26歳でケンブリッジ大のカレッジの教授に

1661年にはケンブリッジ大学のトリニテイ・カレッジに入学。当時、自然科学は科目になかったが、この時期、デカルトの幾何学やケプラーの屈折光学を読んだ。
さらにルーカス教授のもとで数学、光学、力学を学び、その才能を認められて、1669年にはその跡を継ぎ、ケンブリッジ大学のトリニテイ・カレッジのルーカス講座の教授となった。26歳の若さだった。
1672年には、望遠鏡(ニュートン式望遠鏡)の発明を評価されて、ローヤル・ソサエティの会員となり、1689年にはケンブリッジ大学選出の国会議員となった。その後、造幣局長官となり、1703年、ローヤル・ソサエティの総裁に就任し、生涯その地位にあった。

生涯に成し遂げた研究の大半は大学時代になされた

発明発見に関しては、万有引力の発見の他、微積分法の発見、光の分解、運動の三法則の確立、反射望遠鏡の発明など、まさに天才と言うべき功績を遺した。無駄な研究も多かったと言われるが、その中には今も研究対象になっているものもある。
卓越した発見や発明を支えた秘訣は、几帳面なメモの習慣と類いまれな集中力にあったと言われる。

実は彼は発明を巡って論争が絶えなかった。光学の理論に関しては、ロバート・フックが「すでに自分が考えていたことだ」と主張し、2人の論争は4年半も続いた。微分積分法の発見については、ライプニッツが1684年に、ニュートンが1687年にそれぞれ発表し、2人とも「自分が先に発見した」と主張し、対立した。
ところがニュートンは大学3年だった1666年頃、すでに微分積分法を開発していた。この時期、ペストが大流行して大学は閉鎖され、ニュートンは故郷へ避難していた。この間、勉強と研究に没頭し、生涯に成し遂げた研究の大半はこの時期になされた。そのため、後世「驚異の1年半」といわれる。

錬金術の研究にはまり、一時期水銀中毒に陥る

小さいときは虚弱だったニュートンだが、意外にも壮健だった。54歳のとき、精神疾患のためにケンブリッジ大学を辞任している。その理由について、現代になって遺髪が分析され、大量の水銀が検出された。彼の精神疾患は水銀中毒によるものと見られている。
ニュートンはケンブリッジ大学のトリニテイ・カレッジの教授になった頃から、時間の大半を錬金術に費やすようになっていた。

ニュートンの錬金術研究に関しては、『毒素元素 謎の死を追う』(渡辺正・久村典子共訳)に詳しい。それを参考にして記述すると、錬金術は卑金属を金に変える術で、その理論によると、水銀はあらゆる金属を生む特別な元素で、卑金属を金に変える鍵を握っていた。
錬金術は古代に始まったが、「古代の錬金術師は金の製法を知っていたのに、秘伝が失われてしまった」と、ニュートンはみていたという。
1940年に250年間眠っていたニュートンの文書箱を開けた経済学者ケインズは、何冊ものノートに金づくりのおびただしい実験記録があるのを見て仰天したという。

ニュートンの錬金術実験は50歳を迎えた1693年の夏に最高潮を迎えたらしかったが、研究成果を批判されようものなら、批判した相手へ異常な憎しみを燃え上がらせた。奇行が多すぎて正気さえ疑われたという。
リンカーンは錬金術実験に水銀だけでなく、鉛と砒素、アンチモンも使っていた。『毒素元素 謎の死を追う』には、「ニュートンは生涯の一時期、慢性の水銀・鉛中毒だったにちがいない」と記述されている。

膀胱結石のために84歳で逝去

しかし、ニュートンは60歳を過ぎてからも元気で、太ってはいたが血色もよく、眼鏡も用いず、歯も1本欠けているだけだった。ところが、80歳のころから、尿を失禁するようになった。82歳のとき、尿路結石が排出され、84歳のとき痛風の発作が起きた。
85歳の春のある日、彼は腹部に強い痛みを覚えた。痛みは激烈で、脂汗を流して苦痛にもだえ、のたうち、ために、ベッドだけでなく、部屋全体が揺れるほどだったという。原因は膀胱結石だった。それから半月後、腎不全で意識不明の昏睡状態に陥り、そのまま亡くなった。84歳だった。

膀胱結石は当時のヨーロッパでは非常に多い病気だった。尿路結石も痛風も膀胱も、共通の素因から起きたのだろう。膀胱結石は、発作時には脂汗が流れるほどの激痛を引き起こすが、治療は手術で結石を取り出すしかない。当時は麻酔せずに摘出手術を行うのが普通で、それは地獄の責め苦のようであったが、人々は病気による痛みから逃れたい一心で手術を受けたという。ニュートンは高齢のため、手術は回避されたのだろう。

それはともかく、一時期の奇行が水銀中毒によるものとしても、84歳の高齢まで生きた彼は永続性の害をほとんど受けなかったことになる。また、自分を批判した人を執拗に攻撃するのは、精神の不安定によるが、それには生い立ちも関係していたとみられている。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。