病気と歴史 - バルチック艦隊を日本海海戦で撃破した東郷平八郎。87歳の長命も、長生きしすぎたのか

病気と歴史 - バルチック艦隊を日本海海戦で撃破した東郷平八郎。87歳の長命も、長生きしすぎたのか
日露戦争勝利に貢献した、国民的英雄 

日露戦争の英雄、東郷平八郎は弘化4年(1847)に薩摩で生まれた。薩摩藩士で、明治新政府になってから、明治4年にイギリス海軍に留学し、帰国後、海軍中尉になり、日清戦争では浪速艦長として活躍した。
その後、海軍大学校長、常備艦隊司令官長、舞鶴鎮守府司令長官などを歴任し、日露戦争前の明治36年(1903)に連合艦隊司令長官に就任した。

そして日露戦争(明治37~38年=1904~1905年)では日本海軍の司令官として主要作戦を指揮。日本海海戦で、世界一といわれたロシアの連合艦隊を一方的に撃破し、勝利に大きく貢献した。
日本は一躍世界中の注目を浴び、国際的に認められることになった。東郷はアドミラル・トーゴー(東郷提督)としてその名を世界に広く知られるようになった。

日本海海戦では大敗を喫したロシアだったが、大陸では軍事力を残していて、日本海海戦の後も戦争続行の意思があった。それが終結に持ち込めたのは日本の外交の賜物だった。
日露戦争の開始とともに、日本はアメリカ対して、この戦争の講和をしてくれるよう働きかけていていた。こうして勝利のうちにロシアと講和でき、日本は救われたが、日本は賠償金を取れなかった。極めて不利な講和だった。

87歳にして喉頭癌で薨去

日露戦争後の明治44年(1911)、東郷は、英国ジョージ5世の戴冠式に参列する東伏見宮の随員として、もう1人の英雄、乃木希典大将とともに渡欧した。2人は世界のアドミラル・トーゴーとゼネラル・ノギとして大歓迎を受けた。
帰路、東郷は米国経由で1人だったが、その折、下腹部に激痛を訴え、ほうほうのていで帰国した。膀胱結石たったが、これが持病となり、生涯苦しめられた。

大正2年(1913)には元帥になり、その後も海軍の長老として、昭和の時代になってからも大きな影響力を持っていた。
明治、大正、そして昭和と生きてきた東郷元帥だが、86歳になった昭和8年(1928)の秋頃より時々喉に異物感と軽い痛みを感じるようになった。同9年になってからは、食べ物が喉を通りにくくなったが、我慢強いゆえ、苦痛を訴えもしなかった。
同年5月になると水も喉を通らなくなり、ようやく医師の診察を受けた。診断は喉頭がんで、すでに重篤な状態だった。
諸般の事情があったのだろうが、海軍省はそれまで東郷元帥の病状を国民には伏していたが、5月27日に、
「放射線療法その他の治療を施しつつも、老体に加え、時々宿痾膀胱結石、坐骨神経痛を起こし、気管支炎などを併発して衰弱が加わり、昨今心痛すべき容体にあり」と発表。号外が出された。日本海海戦から29回目にあたる海軍記念日だった。
5月30日午前7時、東郷は息を引き取った。満87歳、数えの米寿だった。

晩年も先任元帥として大きな影響力を持つが、国を誤らせたのか

最後は自宅で暮らし、医師が往診した。山田風太郎著『人間臨終図鑑Ⅲ』(徳間文庫)には、病床の様子を長男が語った話が紹介されている。
それによると、病床には毎日、陛下より御下賜のスープが届いた。東郷元帥は、スープをいただくときは、必ず床の上で合掌して御礼を言上した。そして、このありがたきスープを、隣室に伏している妻にいつも分けてやったという。
妻は6年前からリウマチで、この頃には手足も動かせない状態だった。

29日の午後11時過ぎ、東郷元帥の容態が絶望的になったので、妻は寝台ごと、夫の病室の敷居のところまで運ばれた。
まったく絶望の重態で、意識不明瞭のはずの東郷元帥がこのとき、右手をしきりに振り、「わかったよ、わかったよ」というように、2、3度うなずいたという。

ところで、日露戦争後、東郷平八郎は顕職として東宮御学問所総裁に就いているぐらいで、余生を静かに暮らしていた。
それが、前述したが、大正2年(1913)に元帥府に列せられてから、人生がまた変わってきた。当時、先任の元帥に井上良馨がいた、先任元帥は、海軍の最終的判断者である。とはいえ、井上元帥は、現役が立てた計画や案に反対を唱えることはなかった。形式的な任に徹していたが、それが先任元帥の望ましい在り方だったのだろう。

井上元帥が亡くなったのが昭和4年(1929)で、後を継いで東郷元帥が先任元帥となった。
海軍では神格化され、高人事に口を出して海軍の進路を誤らせるもとをつくった、長生きをし過ぎたともいわれる。
また、生前、昭和6年頃、東郷神社建立の話が持ち込まれたとき、顔色を変えて怒ったといわれるが、没後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現、福津市)に東郷神社が設立された。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。