病気と歴史 - ニーチェに『ツァラトゥストラはかく語りき』を書かせたのは梅毒脳による狂気だったか

病気と歴史 - ニーチェに『ツァラトゥストラはかく語りき』を書かせたのは梅毒脳による狂気だったか
ベストセラーとなった、『超訳ニーチェの言葉』

2010年頃から、わが国でニーチェの本が人気になった。その火付け役となったのが『超訳ニーチェの言葉』で百万部を超す大ベストセラーとなった。
難解なニーチェの本が売れたのは、ニーチェの言葉を巧みに抽出し、それを超訳し、理解しやすいものに仕立てたからと考えられている。それらニーチェの言葉はどれも力強い。その力強さが、経済の停滞が続き、そのうえ東日本大震災という災難に遭い、閉塞した日本社会にあって勇気づけてくれるとも解釈された。

ニーチェといえば超人で、ニーチェの哲学的アイデアの中でも重要なものである。では超人とは、どういう存在なのか。超人は『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で登場する。主人公ツァラトゥストラは、10年に及ぶ山での孤独な思索で得た知識を伝えようと町へ降り、群衆にこう語りかける。
「私は諸君に超人を教える」「超人は、大地の意義である」

『知の教科書 ニーチェ』(講談社選書メチエ)の清水真木・明治大学教授は、「生きることの障害となる、あらゆる種類のものを真なるものと受け止め、自らの強さの限界に挑戦する存在」と解いている。難しいが、要するに、へこむ材料こそ生きる喜びと考え、次々と乗り越えていく存在ということのようだ。

「人間的な、あまりに人間的な」を出版するも、健康状態が悪化

ニーチェは1844年にドイツ連邦・プロイセン王国領に生まれた。61年にボン大学に進学し、古典文献学の権威に師事した。68年にライプチヒ大学へ移籍したが、ここで作曲家ワーグナーに出会い、心酔する。ニーチェは生涯にわたって音楽に関心を持っていた。69年、バーゼル大学で古典文献学の教授に就任した。
70年には普仏戦争に看護兵として従軍し、ジフテリアや赤痢にかかった。72年に『悲劇の誕生』を出版した。この作品は音楽における悲劇的精神の再現を表現したが、それは師ワーグナーへの賞賛と誤解された。78年には『人間的な、あまりに人間的な』を発表するとともにワーグナーと訣別をした。

後に代表作の一つとなるこの作品を発表したニーチェであったが、78年には健康状態が悪化し、大学を辞職。この後、病にさいなまれることになる。

21歳のときに梅毒に感染、心身の苦痛にさいなまれる

実はニーチェは梅毒に感染していた。いつ、どこで、この業病をもらったのだろうか。『王様も文豪もみな苦しんだ性病の世界史』(ビルギット・アダム、草思社)によると、ニーチェは21歳のとき、ライプチヒの娼家で病気をもらい、当時すでに2人の医者から治療を受けていた。しかし回復せず、その後ずっと、ニーチェは「自分はたえずなにかの病気に悩まされている」と訴えた。頭痛のような身体的苦痛のほかに、うつ病や自殺願望などの精神的苦痛に苦しめられた。

85年には、代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』を発表した。ところがその後、恍惚と誇大妄想がますます激しくなっていき、88年の末には、はっきりと精神異常が現れた。89年初めには、突然倒れ、数日間、意識不明に陥った。意識が戻ってから、大声で独り言をいい、歌をうたったという。

異常行動が元で10年間精神病院に入退院をくり返した果てに死亡

そのころにはまた、友人たちに意味不明な手紙を送るようになった。とくに目立つ文面は、世界を支配できるのは自分しかいないという強烈な超人願望で、スウェーデンの小説家ストロンドベリに宛てた手紙の末尾には「シーザーより」と署名してあった。別の手紙には、「十字架にかけられし者、キリスト」とサインがしてあったが、いずれも誇大妄想の典型的な症状である。
これらの手紙や異常行動がもとで、この年の10月、ニーチェは精神病院に入院させられたが、このとき進行性麻痺と診断された。その後、麻痺は進み、外出できないし、言語障害のため自分の意志を表示できなくなった。母はニーチェを故郷に近いイエナに連れて帰り、それから10年間、ニーチェは病院を出たり入ったり、母と妹の世話になったりして過ごした。
1900年、ニーチェは肺炎にかかったのが直接の原因で亡くなり、ようやく病苦から解放された。55歳だった。前出の『王様も文豪もみな苦しんだ性病の世界史』にはこう書かれている。
「ニーチェの伝記作家たちは、彼の病状を梅毒性麻痺と断定するのをためらい、その精神的退廃を薬物の乱用や神経衰弱のせいにした。これほど偉大な哲学者の思想が、じつは狂気の所産であったかもしれないと想像するのが嫌だったからだろう」

偉大な哲学者の思想は、梅毒による狂気の所産だったのか

梅毒は、1期から3期の病期に分けられる。3期は原因となる細菌のスピロヘータが脳に入った段階。つまり、脳梅といわれる時期である。脳梅になると、脳の働きが通常とは異なるステージに入り、通常では考えられないような脳の働きをするといわれる。そういう見方がある。

オーストリアの作曲家フーゴー・ヴォルフは、梅毒が進行した10年間、次々と傑作を生み出した。300以上の曲が生まれたが、『王様も文豪もみな苦しんだ性病の歴史』に次のように書かれてある。
「この異常なまでの創作意欲の高まりは、おそらく梅毒による麻痺のはじまりに起因するもので、実際にこの症状はしばらくの間は患者の能力をおそろしく高め、さんざん高揚感を味わわせた末に、最終的に精神の退廃へと向かうのである」

このときの創作の陶酔感を、フーゴー・ヴォルフは、
「私は自分のなかに超人的な力を感じるのだ。世界中が束になってかかってきても負ける気がしない。それほどまでの強さを私は感じている。人生に価値あり! 私の魂の火薬庫に火が点いたなら、それはおそろしい爆発を起こして次の傑作となって生まれるのだ。なんと楽しみなことだろう!」と記している。
しかしこの高揚感は永遠には続かない。創作的陶酔の時代が過ぎると、無為と退屈の日々がやってきて、作品は気味の悪いものに変質しはじめたのだった。

ニーチェも、第2期の症状の途中、「年月は人を成長させ、梅毒は人創造する」といったといわれる。何歳のころ2期だったかは不明であるが、85年に『ツァラトゥストラはかく語りき』を発表したころには3期に進んでいたと思われる。
前出の『王様も文豪もみな苦しんだ 性病の世界史』には、「これこそは創造的歓びの恍惚がもたらした哲学的所産にちがいない」と書いている。ニーチェがもっと長生きしていれば、どのような作品をものにしたのだろうか。それは超人を超え、おぞましいものなのか。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。