病気と歴史 - 「アジアは一つ」と訴えた岡倉天心。天心亡き後、やがて日本は欧米との戦争に向かった

病気と歴史 - 「アジアは一つ」と訴えた岡倉天心。天心亡き後、やがて日本は欧米との戦争に向かった
美術に没頭し、日本の美術教育の礎を築く 

『茶の湯』の本、「アジアは一つ」という言葉で知られる岡倉天心は文久2年(1863)に横浜で生糸商店を営む石川屋勘右門の次男として生まれた。店は外国商人相手の商売で、そのため大勢の英米人が出入りし、天心は子供の頃から英語が堪能だった。
東京大学に入学し、東京大学文学部教師として来日したフェノロサに学生の天心が通訳・翻訳をした。18歳のときに結婚していたが、東大の卒業論文に書いた「国家論」を妊娠中の妻がヒステリーを起こして引き裂き、火にくべて燃してしまった。論文提出まで2週間の期限しかなく、やむなく英文で「美術論」を書き上げたが、この卒論がフェノロサの鑑画会に加わり、美術に没頭させる転機となった。

卒業後、天心は文部省で美術掛に就任したが、その頃日本の美術振興を経済的に援助したアメリカの富豪ビケローが来日し、フェノロサと天心、ビケローの3人は京都・奈良方面の古美術調査にあたった。
明治17年5月には法隆寺で初めて夢殿を開扉し、その秘仏を目にした。折しも東洋美術振興の機運が高まり、天心らの努力もあり、明治20年10月に東京美術学校設置が発令された。二年後開校し、天心はその校長となった。天心の講義は後に『日本美術史』として結実し、こうして天心によって日本の美術教育の基礎が定められたのであった。

美術界の頂点に立つも、現場を離れインドへ

若くして美術界の頂点に立った天心だったが、そのぶん風当たりも強く、明治31年3月、美術学校校長を辞した。このとき、橋本雅邦画、下村観山、横山大観ら十七名の教職員も行動を共にした。その後、天心は自らの理想の実現のために美術院創立を決意。
ビゲローの資金援助もあって、同年10月には開院式を行うとともに第1回展覧会を開催し、横山大観の大作『屈原』が評判を呼んだ。世を挙げて西洋物質文明を謳歌する中にあって、天心は美術を通して東洋の精神の追求を訴えたのである。天心は美術の分野で西欧に対抗しつつ日本の近代をつくったと、のちに評価されている。

美術院の展覧会には大観、菱田春草、川合玉堂、竹内栖鳳、上村松園などの画家が次々に力作を発表し、明治32、33年は日本美術院の最盛期であった。しかし、この運動は結局長続きしなかった。天心の理想があまりにも高踏的で世人に理解されず、経済的行き詰まりと人間関係の軋轢もあって、天心は現場を去りインドへ向かった。明治34年の12月のことであった。

インド行から帰国後、ロンドンの出版社から『東洋の理想』を出版

インド行は天心の人生に転機を画するものであった。現実での理想実現に敗れた天心は、以後、英文の著作によって、自らの信念を世界に訴えるようになった。1年間のインド放浪の後の明治36年、最初の英文著書『東洋の理想』がロンドンのジョン・マレー社から出版された。その書き出しが、「Asia is One!(アジアは一つ!)」である。
この言葉に続いて、「普遍的なるものを求める愛の広いひろがり」と述べており、アジアの精神的なつながりを念願していたことがわかる。

明治37年には渡米してボストン美術館東洋部に勤務し、同年10月には2冊目の英文著書『日本の覚醒』を、39年には『茶の本』を出版した。その後の天心は、中国への2回の大旅行で中国美術を研究したり、たびたびアメリカへ足を延ばしたりし、官職にも就いた。
明治44年(1911)8月22日、天心が日本に帰ってみると、悲しい知らせが待ち受けていた。その12日前に弟子の春草が亡くなっていたのだった。
そういう天心自身、糖尿病の病魔に悩まされていたが、休養してはいられなかった。ボストン美術館のための美術品収集の用向きで5月から6月にかけて中国に赴き、8月からはインドに向かった。インドではタゴールと再会し歓迎を受けたが、ここでも糖尿病に苦しみ、欧州回りの船でボストンに着いたときには傍目にもわかるほどのやつれ方だった。

ボストン滞在中に糖尿病が悪化し帰国。糖尿病腎症を発症し腎不全で死去

周囲の人たちの勧めでマサチューセッツの保養地で静養したものの、病状はかんばしくなく、天心の希望もあって帰国して日本で治療に専念することになった。大正2年(1913)の春、帰国して静養し、いくぶん元気になった。
8月、天心は無理を押して上京した。文部省の古寺保存会の会議のためだった。現在の文化財保護委員会にあたる古寺保存会では、天心を中心に法隆寺の壁画をどう守っていくかを検討していた。
暑いさかり、天心は文部大臣に提出する意見書のまとめを行い、病気をいっそう悪化させてしまった。この月、天心は外務大臣の推薦によって、日米交換教授になるよう要請されたが、すでに起き上がることさえできなくなっていた。

医師の治療や妻子の看病もあって、危機は脱したが、東京は連日の猛暑だった。「赤倉へ連れていってくれ」との天心の頼みを聞き入れ、妹が赤倉の山荘へ天心を連れていった。久しぶりの赤倉の大自然に触れ、天心の心は安らいだ。体に力がわいてくるように思われたが、それも長くは続かなかった。
8月29日になって、にわかに病状が悪化した。腎臓病と尿毒症を併発したのだった。意識もとぎれがちになり、9月3日、ついに不帰の人となった。52歳だった。
天心は糖尿病の合併症として糖尿病性腎症を発症し、最終的には腎不全になり、これが命取りになったのだった。現在は人工透析が進歩、普及しているので、腎症がかなり進行しても命を落とすことはなくなった。

天心亡き後の日本はやがて欧米列強との全面戦争へと向かっていった。天心は西洋対東洋という視点を初めて持った知識人といわれる。天心の言葉「アジアは一つ」には「アジアはヨーロッパに虐げる点において一つである」という意味が込められているという。天心が生きていれば、戦争へと向かう日本に、どういう言葉を発したのだろうか。死によってその機会が失われたことだけは確かである。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。