東 雑記帳 - 動物の死に「死亡」「亡くなった」は、やはりおかしいのか!?

東 雑記帳 - 動物の死に「死亡」「亡くなった」は、やはりおかしいのか!?

いつ頃からか、動物が死んだことを伝えるのに、「死亡(した)」という言葉を用いるのを見聞きするようになった。「動物園」「動物」「死亡」の言葉で検索すると、動物園のウェブサイトがヒットし、「○○が死亡しました」という報告がいろいろ出てくる。動物の死に、「亡くなった」という言葉を使うのも見聞きする。

それについて、「死亡」や「亡くなる」は人間の死だけを言う言葉であるから、動物に用いるのはおかしいという意見があるが、本来の意味に立てばそのとおりである。「亡くなる」は死という忌み言葉を使わない婉曲的表現である。動物やペットの死に婉曲的な言葉を使う必要があるのだろうか。
忌み言葉の辞典にあたると、次の記述がある。

(ナクナル)はもともと敬意を含んだ表現だったのだから、われらが使うのにまことに都合がよく、犬にでも猫にでも使える「死ぬ」を使うことは、人間にたいしてはどうも具合がわるい。ナクナルだったら人間にしか使えないし、もっと丁寧にいいたければ、オナクナリニナルとも使えてまことに便利である。

この辞書は一九七七年に出版されている。当時と語感が大きく変わっていると思わざるを得ないが、次の記述もある。
ナクナルという表現は、それがごく自然なものであるだけに、語感はほとんど無色無味にならざるを得ない。
語感が無色無味だから、ごく自然に動物にも用いるようになったのだろうか。

人の死に用いる死亡に相当する、動物の死を表す言葉は存在しない。とすると、名詞としての「死亡」を使いたくなるのは無理もないのではないか。とくに見出しで、「ポチ、死」では、いかにもおさまりが宜しくない。「ポチ、死す」では、文語的で現代の語感にそぐわないだろう。「ポチ、死亡」なら、語呂がよいから、使いたくなる。
明治の国民的大作家、夏目漱石は、「吾輩は猫である』の猫の死を懇意な人に伝える葉書の文面で、「逝去致して」と、逝去という言葉を使っている。改めてこの言葉を辞書にあたると、「他人を敬って、その死をいう語」とある。
漱石は猫の死を人間並みに遇したかったから、「逝去」を選んだのだろうか。

ちなみに、鳥や魚が死んだ場合に古くから用いられてきた言葉に「落ちる」がある。鳥の死は「落鳥」というが、この言葉は愛鳥家には昔からよく知られているらしいが、辞書の見出しには入っていない。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。