東 雑記帳 - スリのおじさん

東 雑記帳 - スリのおじさん

昭和44年(1969)の夏、30歳代半ばとおぼしきスリの人と知り合いになった。西武新宿線のある駅のホームの椅子に座っていると、その男が話しかけてきたのだった。
そのとき、どういうやりとりがあったか覚えていないが、高田馬場の栄通りの居酒屋で飲んだと思う。

それから時々、山手線の車両の中や駅のホームで、時々声をかけられることがあった。3人席の端に座っていると、あとから隣に座った人が、肘を大きく張り新聞を目一杯広げている。新聞はこちらの顔の前にまで来ている。なんなんだろなあ、この人はと思っていたら、その人が新聞の腋からひょっこり顔をのぞかせ、にっこり微笑む。スリのおじさんだった。
電車が空いているときは、当時すでに車内は禁煙になっていたが、堂々とタバコを吸う。たまたま乗務員が来たときは、吸いかけのタバコをパッと口の中に放り込み、涼しい顔をしている。
そして、乗務員に軽く会釈をする。

またあるときは、ホームを歩いていたら、後ろから背中を叩くひとがいる。後ろを振り向きかけたとき、その人が「すみません。タバコの火を貸してくれませんか」と言う。微笑みながら。スリのおじさんであった。

一緒にいて、高田馬場から新宿へ行こうとなったとき、切符を買おうとすると、そのおじさんが「買わなくていい」という。それでは、どうするかというと、切符を持たずに通り抜けるのである。「ほら先に」と、ぼくを先に歩かせ、背中を押す。当たり前のような顔をして通過する。
聞くと、新幹線でもなんでも、切符を買って乗ることはないという。
この無賃乗車は何回も体験させられたが、駅員に止められることは一度もなかった。
駅員に正体を知られているからかと思い、婉曲的に聞いてみたが、返事はあいまいだった。

このおじさんは、箱(電車)が専門で、平場ではしないと言っていた。持ち場が分かれているともいっていた。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。