病気と歴史 - 東大寺の大仏を建立させた天然痘への恐怖

病気と歴史 - 東大寺の大仏を建立させた天然痘への恐怖

和銅3年(710)、天智天皇の皇女、元明天皇(43代)は中国・唐の都長安をモデルにして奈良に都をつくった。平城京遷都で、歴史区分上の奈良時代の始まりであった。遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。

神亀元年(724)に45代の聖武天皇が即位したが、このときから8世紀終わりころまでの時代、のちに天平文化と称される絢爛たる文化が花開いた。律令制が確立し、中央集権的な国家体制が整ってきて、国家の富は中央に集められ、その富を背景に皇族や貴族は華やかな生活を送っていた。

天平文化の粋は、建築美術、仏教美術にあり、大仏が建立された。倉庫としてつくられた正倉院の非対称の美しさは、他国には類を見ないものである。天平文化は、中国、唐の進んだ文化を学び、周や唐の影響を強く受けた文化であった。奈良の大仏や正倉院は現在、古都奈良の文化財、東大寺の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

奈良の大仏は正式には東大寺蘆舎那仏像といい、東大寺大仏殿(金堂)の本尊である。この時代、社会は決して安定した状況にはなく、だからこそ実は大仏が建立されたのであった。

歴史を遡ると、4世紀末から大陸からの渡航者が増加し、6世紀になるとさらに増えてきた。彼らは文化も伝えたが、疫病も持ち込み、国内で多くの疫病が流行した。7世紀には遣唐使の制度が始まり、大陸との交流はいっそう活発になった。大陸と相互に交流、交通がなされることによって、日本に疫病が持ち込まれ、8世紀には日本史に残る疫病、天然痘(痘瘡=もがさ)が大流行した。「もがさ」はインドの北部に始まり、中国から朝鮮半島へ侵入した。中国では5世紀頃より各地で流行が発生していた。そしてついに、天平7年(735)に、大陸への玄関口である九州、太宰府に持ち込まれ本格的な流行をもたらしたが、幸いにも全国へは波及せずに終息した。

しかし、天平9年(737)に再び太宰府に起きた「もがさ」の流行は遠く畿内に広まり、朝廷にも伝播し、時の朝廷を牛耳っていた左大臣藤原武智麻呂ら4兄弟(4家当主)が死亡した。朝廷の有力者もほとんど死に、国内は大混乱に陥った。平安のこの時代、藤原4家のうちの北家が皇室と婚姻関係を結んで摂関政治を行い、実権を握っていた。

奈良の大仏は天平15年(743)に聖武天皇によって造営が発願された。17年(745)から準備が始まり、天平勝宝元年(749)に創建。同4年(752)に開眼供養会が催されたとされる。中国河南省の奉洗寺がモデルといわれる。

『続日本紀』には、大仏造営の詔が次のように書かれている。
「朕は徳の薄い身でありながら、天皇の位を受け継いだ。その志は広くもろもろの人を救済することにあり、そのためつとめて人々を慈しんできた。この国の国土の果てまで、すでに、思いやりと情け深い恩を受けているけれども、いまだ天下の果てまで仏の報恩はゆきわたっていない。そこでほんとうに三宝(仏・法・僧)の威力・霊力に頼って、天と地は安泰となり、万代までのめでたい事業を行って、生きとして生けるもの皆栄えんことを望むものである」

聖武天皇のこの時代、天然痘の大流行という困難に見舞われていたし、干魃や飢饉が続いた。天平6年(734)年には大地震が起こり、大きな被害があった。その上、政治的にも不安定が続いた。藤原の不比等の4人の子(藤原4家の祖)が天然痘で亡くなったことは政治の方向を変えた。藤原家に変わって政治を担ったのが橘諸兄であり、また、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。

吉備真備と玄昉が天皇に重用されていることに対して藤原弘嗣は天平12年、「今日の天地に頻発する災害は時の政治の失策による」と指摘し、「君側の奸である。追放せよ」と求めた。これが認められないとわかると、弘嗣は九州全体の武士を動員して、天皇に反旗を翻したのだった。

この反乱に対して、朝廷側は兵を送り、2ヵ月に及ぶ戦いののち反乱は鎮圧された。しかし、乱鎮圧の報が平城京に届かないうちに、聖武天皇は都を出て、近江国紫香楽宮、難波宮と、都を各地に定め、遷都をくり返し、彷徨した。再び平城京へ戻ったのは5年後だった。聖武天皇は藤原一族の反乱をも恐れていたといわれる。

聖武天皇は天然痘などの災厄を鎮めるための祈願として奈良の大仏を建立したが、そのために庶民は労働力として駆り出され、その数は延べ260万人に上ったといわれる。人々は疲弊し、また財政状況を悪化させ、国力を低下させる要因となった。

天正勝宝8年(742)、大仏の鋳造が終了したが、この年の5月2日に聖武天皇は崩御した。同年7月に橘奈良麻呂の反乱が起こったが、東大寺などを造営して人民が辛苦していること、そしてそれは政治が無道であることに起因しているというのが橘奈良麻呂の理由であった。反乱の口実に東大寺建立が利用されたともいわれるが、東大寺建立が実情を無視した無謀な計画であることが白日の下にさらされたのだった。

奈良時代は天皇中心の専制国家、中央集権国家を目指した時代であったが、政治の実権は藤原氏にあった。聖武天皇亡き後、藤原仲麻呂が台頭し、さらに、僧、道鏡が法皇となって権力をふるうが、陸奥国で反乱が起こるなど蝦夷の抵抗が強まり、正常は不安定だった。794年、桓武天皇は都を京都に移し、ここに奈良時代が終わりを告げ、平安時代が幕を開けた。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。