【旅のお方(たびのおかた)】- 現代に使いたい日本人の感情、情緒あふれる言葉

【旅のお方(たびのおかた)】- 現代に使いたい日本人の感情、情緒あふれる言葉

今から二十六、七年前のこと。大阪、近鉄電車、かつて藤井寺球場があった藤井寺に取材で行ったことがあった。
仕事を済ませるとちょうど昼の時分時、藤井寺駅近くにある、昔ながらの蕎麦屋さんに入った。
温い蕎麦を食べて、女将さんらしき人に千円札を渡すと、
「旅のお方でしょうが、またこちらに来られることがあったら使ってください」といい、釣り銭とともに割引券らしき紙片を差し出した。

旅はそれなりにしてきたが、「旅のお方」といわれたことは初めての体験で、なんだかうれしく、心がほんわかと温かくなった。

「旅のお方」という言葉は、時代小説などで出てくるし、映画やテレビの時代劇でも耳にすることから知っており、馴染みがあった。
しかし、現実社会ではその以前、誰かがこの言葉を使うのを聞いたことはなかったし、誰かに言われたともなかった。もちろん、自分で使ったことがあるはずがない。

小説に出てくる場面を挙げてみると……。

──兵馬は急いで立ち上がろうとした。少女が止めた。
「ただ今お茶を──この辺でお見かけ申したことのないお方ですが、あなた様は旅のお方でございますか」
「さよう」と兵馬はどぎまぎして、
「旅の者でござる」
(『兵馬と鶯』林不忘)

一つの風車の下を通りかかると、風車のかげから、ひとりの男があらわれました。
「もしもし。」
と、その男はマタンによびかけました。
「旅のお方のようだけど、ゆくさきはどこだね」
(『名なし指物語』新美南吉』)

「旅のお方とお見受けしますが……」という言い方もある。

現在、この言葉を使っている地方や地域があるのだろうか。
『旅のお方』(小林佳詞子 創栄出版/星雲社)というタイトルの本が平成九年(一九九七)に出版されている。アマゾンの内容紹介には次のようにある。

飛騨の人たちは、観光客や転勤で移った人たちを「旅のお方」と呼ぶ。(後略)」

「旅のお方」と同じ意味の言葉に、「旅の人」もある。
現代で「旅のお方」に代わる言葉には「旅人」「旅行者」などがあるし、類語に「観光客」「旅行客」などがある。
しかし、
「旅のお方でしょうが、……」とか、
「旅のお方とお見受けしましたが、……」
などに代わる呼びかけの言葉があるのだろうか。

たとえば、
「旅行で来ておられる方でしょうが……」
「旅行の方でしょうが……」
どちらも、しっくりこない。
「観光の方でしょうが……」も似たようなもので、しっくりこない。
「旅」は和語であるのに対し、「旅行」は漢語で、醸し出す雰囲気が違う。旅は語感が柔らかく、会話で用いるには和語のほうがよいに決まっている。
やはり、「旅のお方」に代わる言葉はないと思われるが、しかし、古めかしすぎる

それではどうすればよいかと考えるに、「お」を取って、「旅の方」にすればよいのではないか。「方」は人を指す敬った言葉である。「お」は「御」で、尊敬の意を表す接頭語で、「お方」は二重の敬語表現。
このことからも、「お」を取ったほうが、軽くなり使いやすいと思う。

大きなスーツケースを抱えていて、明らかに旅行者と思われる人に道をたずねられたときなど、
「旅の方ですか……」と。さりげなく、聞くもなく言ってから、道順を教えてあげるとよいだろう。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。